Masukサンプル。 その単語が、男の丁寧な言葉遣いの中に潜む決定的な異質さを浮き彫りにした。 この男の目には、目の前に座る人間が、血の通った人間として映っていない。フラスコの中で反応を起こす未知の薬液か、あるいは解剖台に並べられた珍しい臓器を見るような、完全な観察者の視線。「奇跡、なんて呼ばれる筋合いはありません」「ご謙遜を。あの地下の『奈落』に数世代にわたって蓄積した濃密な呪いを、たった一人の人間の容量で一瞬にして無に帰した。……あのエネルギーの奔流を観測した時、私は身震いしましたよ」 ヴィクトルの瞳に、初めて微かな熱のようなものが灯った。しかしそれは、愛情や同情ではなく、狂気に近い探求心の炎だった。「あなたの力は、あの狭いペントハウスで一匹の竜の肺を潤すためだけに使われるには、あまりにも惜しい。世界を清浄に保つための、無限の可能性を秘めている」「……だから、切り離すって言うんですか。私から、この力を奪って……どうするつもりですか」「奪うなどと、人聞きの悪い言葉を使わないでいただきたい。私は、あなたを救いたいのです」 ヴィクトルは組んでいた指を解き、真っ白な手のひらを上に向けて差し出した。「私の研究施設にお越しいただければ、最新の魔術的アプローチと科学を融合させた設備で、あなたの魂の根幹から『浄化の力』だけを安全に抽出することができます」 抽出。 まるで、コーヒー豆から成分を抜き取るような手軽さで、命の芯に根ざした力を抜き取ると男は言っている。「抽出した力は、増幅フィルターを通してあの黒竜へ供給すればいい。そうすれば、あの怪物はあなたの直接の接触なしに呼吸の苦しみから永久に解放される」 言葉に、心臓がドクンと大きく跳ねた。 黎の呼吸の苦しみが、永久に解放される。 あの、夜の書斎で胸ぐらを掴み、肺を焦がしながら咳き込んでいた痛ましい姿を、もう二度と見なくて済むというのだろうか。「……そして、あなたは」 ヴィクトルの滑らかな声が、さらに一段低く、
「……切り、離す?」 かすれた音が、カチャリという陶器の触れ合う音に混じって漏れ出た。 膝の上で固く握りしめた両手から、一気に血の気が引いていくのがわかる。 テーブルに置かれたティーカップから立ち昇るダージリンの華やかな香りが、目の前の男から放たれる無機質な消毒液と、甘く重たい香水の匂いに完全に塗り潰されていく。 ヴィクトルと名乗った白いスーツの男は、完璧な左右対称の微笑みを顔に貼り付けたまま、静かに顎を引いた。「ええ、そうです。切り離すのです。果実から果汁を絞り出すように、あるいは、毒蛇から牙を抜き取るように」 ベルベットのように滑らかな声が、ラウンジに流れるクラシックピアノの生演奏に溶け込んで鼓膜を撫でる。 心地よいはずのその声の響きが、背筋にぞわりとした冷たい粟立ちを呼んだ。「あの黒竜の命綱という鎖から解放される……って、どういうことですか」 テーブルの縁を両手で掴み、前のめりになりそうになる身体を必死に抑え込む。「簡単な理屈ですよ、瀬理亜さん」 ヴィクトルは、テーブルの上に置かれた純白のナプキンを、長い指先で芸術品でも愛でるようにゆっくりと撫でた。爪の先まで完璧に手入れされたその手は、冷たい大理石の彫刻のように血の通った温もりを感じさせない。「あなたの魂に宿る浄化の力は、確かにあの現代の瘴気に蝕まれた竜の肺を癒やすことができる。しかし、それは暖炉にくべた薪を燃やすのと同じ行為だ。あなたの生命力の芯を削り、燃焼させることで、あの怪物の呼吸を長らえさせている。……このままでは、遠からずあなたは灰になって崩れ落ちる」 その指摘は、昨日あの有栖川の地下牢で、白亜から突きつけられた残酷な事実と全く同じだった。 力を使えば、命が削られる。 あの時、胸元の寄生具を破壊するために限界まで力を放出した結果、高熱を出して倒れ込んだ。黎は、そのことに気づき、触れることすら恐れるようになってしまったのだ。「……そんなこと、わかっています」 喉にへばりつく嫌な渇きを飲
「お隣、よろしいですか。有栖川瀬理亜さん」 声は驚くほど穏やかで、上質なベルベットのように滑らかだった。 しかし、声を聞いた瞬間、背筋をゾクリと冷たいものが滑り落ちた。 理恩の歪んだ悪意とも違う。黎の圧倒的な暴力性とも違う。 まるで、実験台の上のモルモットを観察するような、完全な「無機質」な視線。「……誰、ですか。私の名前を、どうして」 膝の上で両手を強く握り合わせ、警戒心を隠さずに問い返す。 男は微笑みを崩さず、長い指を組んでテーブルの上に置いた。「失礼しました。私は、ヴィクトル・フォン・フランケンシュタインと申します。しがない研究者であり、少しばかり……命の仕組みに興味がある人間です」 ヴィクトル、と名乗った男の視線が、テーブルの下で握りしめられている私の右手に向けられた。 眼鏡の奥の瞳が、僅かに細められる。「有栖川の不出来な仕掛けのせいで、随分と痛ましい火傷を負われているようだ。……まだ、指先に不快な痺れが残っているのではないですか?」 ハッと息を呑んだ。 昨夜、黎が焼き切ってくれたはずの、有栖川の呪いの残滓。それがまだ自分の内側に潜んでいることを、この男は一目で見抜いたのだ。「あなたには、素晴らしい価値がある。その特異な魂の構造は、人間社会にとっても、そしてあの黒竜にとっても、奇跡と呼ぶにふさわしい」 ヴィクトルの滑らかな声が、静かなクラシックの旋律に混じって耳の奥へと入り込んでくる。「ですが、その力はあなた自身の命を削っている。……彼を救いたいと願いながら、自分が消費されていく恐怖に怯えるのは、さぞお辛いでしょう」 男の言葉は、私が一番触れられたくない不安の核心を、メスで切り裂くように正確に突いてきた。 ヴィクトルはゆっくりと身を乗り出し、甘い香水の匂いを漂わせながら囁いた。「私なら、あなたのその力を……あなた自身の命から、安全に切り離して差し上げることができます」 ティーカッ
膝の力が抜け、ベッドの端にドサリと崩れ落ちる。 大きな両手が、綺麗に整えられたシーツを乱暴に掴み、顔を深く押し当てた。 シーツの繊維の奥に、まだほんの僅かに残っている彼女の匂い。日向のような、柔らかい匂い。 それを逃すまいと、黎は大きく息を吸い込む。 ヒュゥゥゥ……ッ。 気管が狭窄し、肺の奥を鋭い針で無数に刺されるような激痛が走る。 彼女の浄化の力が消え失せた空気を吸い込んだことで、現代の瘴気が一気に内臓を焼き始めたのだ。「がっ、は……こほっ、げほぉっ!」 シーツに顔を埋めたまま、黎は激しく咳き込んだ。 胸ぐらを右手で強く掴み、シャツの生地を引きちぎらんばかりに握りしめる。 痛い。息ができない。 しかし、その物理的な肺の痛みよりも何万倍も、シーツから彼女の匂いが消えていく事実の方が、黎の胸の奥を無残に抉り取っていた。「……俺が、出ていけと、言ったんだろうが」 ひび割れた声が、誰もいない寝室に溶ける。 彼女の命を削らないために。足手まといだと突き放し、冷たい言葉のナイフで何度も切り刻んだのは、他でもない自分自身だ。 あの時、彼女は泣きそうな顔をして、必死に袖口を掴んできた。 それを振り払った時の、手のひらに残る微かな抵抗感。 黎はシーツを掴んだまま、ギリギリと歯を食いしばった。 守るためだった。彼女をこれ以上、自分の都合で消費しないための、唯一の選択のはずだった。 なのに、この空っぽになった鳥籠の中で、残された匂いに縋り付いて喘いでいる自分は、滑稽なほどに惨めで、どうしようもなく彼女を渇望していた。 ◇ ホテルのラウンジ。 白亜がケーキのビュッフェ台へと向かってから、数分が経過していた。 ティーカップの縁を指の腹でゆっくりとなぞりながら、窓の外の景色をぼんやりと眺める。 その時。 ふわりと、見知らぬ匂いが鼻先を掠めた。 病院の手術室を思わせる無機質な消毒液の匂いと
一人残されたテーブル。 クラシックのピアノの旋律が、静かに耳を打つ。 ペントハウスの鳥籠を抜け出したのに、私の中身は、有栖川の屋敷にいた頃よりもずっと、空っぽになってしまったようだった。 ◇ 同時刻。 六本木のペントハウス。 重厚な木製ドアの電子錠がカチャリと解除され、勢いよく内側へと開け放たれた。 大理石の土間を踏みしめ、巨大な影がリビングへと滑り込む。 黎だった。 漆黒のウールコートの裾を翻し、肩で大きく息をしている。その拳の関節には、微かに赤黒い染みが付着し、鉄錆のような血の匂いがコートに染み付いていた。 有栖川邸の重厚な門扉を素手で粉砕し、残っていた『奈落』の呪具の破片ごと、地下室を丸ごと物理的に圧壊させてきた帰りだった。理恩の顔面にどのような恐怖を刻み込んできたかは、その冷え切った黄金色の瞳が物語っている。「……戻ったぞ」 低い声が、広いリビングに落ちる。 しかし、返事はなかった。 足を踏み入れた瞬間に、黎の全身の筋肉が硬直した。 空気が、違う。 いつもなら、この部屋のどこかにいるだけで感じられる、微かなミントの香りと、肺の奥をふわりと撫でるような清浄な気配。 それが、数時間前よりも明らかに薄れ、霧散しつつあった。 黎は長い脚でカーペットを蹴るようにして、リビングの奥へ進む。 ブラインドが下りたままの薄暗い空間。 昨日叩き閉めたままの、巨大な黒いグランドピアノ。 ダイニングテーブルには、昨夜彼女が淹れてくれたティーカップが、冷え切ったまま放置されている。「瀬理亜……?」 声の端が、微かに震えていた。 大股で寝室へと向かい、ドアを乱暴に開け放つ。 静まり返った室内。ベッドのシーツは綺麗に整えられており、誰もいない。 黎の視線が、開け放たれたままの巨大なウォークインクローゼットへと向けられた。 ハンガーに掛けられたままの、見渡す限りの高級なドレス。引き出しに並べられた宝石
「はい、これお姉さんの分ね」 向かいの席に座った白亜が、テーブルの上に大きな平皿をドンと置いた。 そこには、色とりどりのケーキが五つ、隙間なく並べられている。白亜の目の前には、さらにその倍の量のケーキが山積みになっていた。「こんなに……食べられませんよ」「一口ずつでもいいから食べてみて。人間社会の糖分は、本当に素晴らしい発明だと思うんだよね」 白亜は目を輝かせながら、小さなフォークでチョコレートケーキを切り分け、幸せそうに頬張っている。 ティーカップの取っ手に指をかけ、温かい紅茶を一口飲んだ。 じんわりと胃が温まる。 ここは、綺麗で、安全で、甘い匂いに満ちている。 なのに、胸の奥に空いたぽっかりとした穴を塞いでくれるものは、ここには何一つなかった。 あのペントハウス。 最初は、逃げ出せない「空っぽの鳥籠」だと思っていた。広すぎるリビングに、高価な家具が並んでいるだけの、温度のない空間。 でも、いつの間にか。 家電に負けて不機嫌になる銀髪の男がいて、一緒に深夜のコンビニで買ったアイスクリームの味がして、不器用に髪を梳いてくれる大きな掌の熱があって。 私のために届いた、あの黒いグランドピアノが置いてある。 私にとって、あそこは「帰る場所」になっていたのだ。 微かな焦げたスパイスの匂いがない空間が、こんなにも寒々しく、息苦しいものだったなんて。「……ノワールは、馬鹿だね」 二つ目のタルトを平らげた白亜が、ポツリとこぼした。「お姉さんを遠ざければ、自分が我慢すれば済むと思ってる。自分が肺を焼かれて死ぬ分には、お姉さんを傷つけないからいいやって、そういう自己満足」 淡いアイスブルーの瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。「でも、息ができないのはお互い様じゃない? お姉さんだって、今、すっごく息苦しそうな顔してるよ」 言葉に、ハッと息を呑む。 持っていたティーカップがカチャリと揺れ、ソーサーに微かな音を立てて置かれた。 息ができない。







